児童虐待と歯科との関わり
―被虐待児童の早期発見―
被虐待児童の口腔内調査
     

 最近、わが国で児童虐待が急増しており、厚生労働省によれば、平成12年には10年前の平成2年の1,101件に比べると17,725件と16倍にもなっていた。東京都においても、福祉局の報告によれば、この傾向は国とほぼ同様で、平成13年度には被虐待児は2,098人と10年前平成3年の104人に比べ20.2倍となっており、子供1,000人に対し0.7人にも及んでいる。この様な現状を踏まえ、国は平成12年5月に「児童虐待防止法」を制定し、また、「健やか親子21」においても子供虐待対策を母子保健の主要事業の一つに位置付けている。
 特に、被虐待児童の多くは乳幼児・学童期の子供であって、この時期、歯科関係者は1.6歳児・3歳児歯科健康診査や、乳幼児歯科相談あるいは就学時歯科健診や学校歯科健診などの場で日常的に、乳幼児・児童に接している。
  このことから歯科関係者、特に、歯科医師は専門家としての立場から、虐待に対する理解と対応が必要となってきた。そして今後、歯科医師は虐待防止に十分な知識を持って、早期発見に努めることはもとより、地域における虐待防止活動にも積極的に関わり、子育て支援の観点からも関係者に適切かつ専門的なアドバイスを提供することが重要・不可欠である。
  ところで、今日、健康との関わりから、住民の歯科保健意識が向上し、口腔内状況への関心が高まり、幼児・児童の口腔内状況は、う蝕罹患率の低下、治療率の向上など大きく改善されてきたところである。また、東京都学校歯科医会の調査によれば、う蝕の少ない子供は健康的で規則正しい生活習慣を送っていることも明らかとなっている。
  しかしながら、1.6歳児・3歳児歯科健康診査や、乳幼児歯科相談あるいは就学時歯科健診や学校歯科健診などで、時として、多数歯う蝕や、う蝕を治療しないまま放置されるなど、口腔内に問題のある乳幼児・児童も見うけられる。
  乳幼児・児童の口腔内にこのような問題がある原因には、育児の上で保護者の歯科保健に対する知識と行動、保護者の経済的な問題などの環境、そして保護者と子供との関係が挙げられる。
  特に、乳幼児・学童が不規則な生活を過ごすような保護者との関係は、児童虐待での「養育の放棄・怠慢」(Neglect)と大きく関係すると考えられるが、わが国において、このような生活習慣に起因すると考えられる、う歯所有率等口腔内状況の調査は全く行われていない。
  このようなことから、現状では、被虐待児が歯科健診に受診し、口腔内に虐待の情報があったとしても、その根拠が明らかとなっていないため、歯科医師からの虐待通報は皆無であり、また、歯科医師と虐待に関連する職種との連携も図られていない。
  今後、歯科から児童虐待の予防、早期発見への関わりを持つためには、まず、児童虐待、特に、「養育の放棄・怠慢」(Neglect)とその生活習慣に起因すると思われる口腔内状態との関連を明らかにすることが必要である。
  そこで、東京都と東京都歯科医師会では、児童虐待と口腔内状況についての調査を平成14年7月より、児童虐待さらには子育て支援の観点から歯科の取り組みを構築するための第一歩として開始した。

1.調査対象者  
 都内5か所の児童相談所と8か所の乳児院に一時保護で入所、入院している18歳未満の乳幼児・児童の内、被虐待児の多い12歳までの乳 幼児・学童期170名(表1)であった。
2.調査担当者
 東京都歯科医師会公衆衛生担当理事と母子保健医療常任委員会委員10名を中心に、東京都歯科医師会公衆衛生関連委員10名、東京都学校歯科医会学術委員6名、および、施設所在地の地区歯科医師会の歯科医師が担当した。
3.調査方法
 別紙調査票(表2,3,4)を使用して平成14年7月より平成15年1月まで延べ36回実施した。
4.調査結果
  調査票に基づいて170名の被虐待児を調査した結果を集計すれば、以下のようであった。
1) 虐待の分類
  調査対象者170名の虐待の分類は表5に示すように、養育の放棄・怠慢に関係する乳幼児・児童が最も多く、身体的虐待が次いで多かった。
2) 虐待者
  虐待を行っていたのは、性的虐待の1名を除いて、平成12年度厚生労働省の調査と同様、いずれの場合も実母が最も多く、実父が続いて多かった(表6)。
3) 一時保護までの生活環境
  被虐待児の家庭での生活習慣が当該児の発育や口腔内状況に大きく関与すると推察されたが、今回の調査では、乳児あるいは幼少の被虐待児から正確な家庭環境を聞き取り調査することは、全くといっていいほど不可能であった。また、高学年にしても、その内容が決して正確とは言えず、信憑性が問われることから取り上げることができなかった。
4) 被虐待児身長       
  今回調査した被虐待児の平均身長を年齢・性別に厚生労働省雇用均等児童家庭局『平成12年度乳幼児身体発育調査報告書』、生涯学習政策局調査企画課『平成13年度学校保険統計調査速報』と比較した結果、男子ではほとんどの年齢で、また、女子では4歳以上で対象とした平均身長より低く、特に、9歳児で顕著であった(表7)。
5) 被虐待児体重
 今回調査した被虐待児の平均体重を年齢・性別に厚生労働省雇用均等児童家庭局『平成12年度乳幼児身体発育調査報告書』、生涯学習政策局調査企画課『平成13年度学校保険統計調査速報』と比較した結果、男子では10歳以下の年齢で、平均体重よりやや軽い傾向であった(表8)。
6) 被虐待児口腔内状況  
  被虐待児の口腔内状況特にう蝕の状態は表9に記載したとおりであった。この結果を、5歳以下は平成14年度版「東京の歯科保健」と、また、6歳からを平成13年度「東京都学校保健統計書」対照として比較すると、表10に示すように5歳以下では被虐待児群のう歯所有率が調査対象者の約半数47.62%にも及び、これは対照群の2倍以上であった(図3)。また、一人平均う歯数も約3本であり、対照の0.88本に比べ3倍以上となっていた(図4)。さらに、う歯所有者の一人平均う歯数や未処置歯所有率(図5)も対照群に比べて大きな値を示し、このため、一人平均未処置歯数において対照群では0.44本と一人平均う歯数4.21本の一割程度であったのに対し、被虐待児群は2.69本と一人平均う歯数6.28本の約半数近くにまでになっていた。
  このことから、5歳以下児において、被虐待児は、う歯所有率や一人当たりう蝕数が多く、しかも未処置数が多いことなど、対象者群と比べて全体として口腔内状況は劣っていた。特に、2歳以上にその傾向が強く認められた。
  また、6歳から12歳の児童においては、表9、表11のように被虐待児群、対照群を問わず、5歳以下の低年齢児に比べ、う歯所有者率は高くなっていたが、7歳児と9歳児を除いて、被虐待児群のほうが高率であった(図6)。特に、将来、口腔領域から健康に影響を及ぼす永久歯の状況についてみれば、10歳児を除いて、被虐待児のほうが、う蝕所有者率が高く、特に、7歳児、8歳児においてはその割合は2倍以上であった(図7)。さらに、永久歯が智歯を除いて、おおむね萌出する11歳及び12歳児で一人当たりの永久歯う歯数を比べれば、被虐待児は対象者の3倍ものう蝕に罹患していた(図8)。その上、被虐待児は罹患したう蝕永久歯の治療がほとんどなされておらず、治療率との関係は、対照群とは逆転していた(図9)。
  すなわち、6歳から12歳児歳までの小学生を中心とする児童においては、学校という社会環境の変化に伴い、被虐待児群、対照群ともに低年齢層に比べ、う歯所有率は高かったが、永久歯の状況においては被虐待児群、対照群で、う蝕所有者率と、また、特に、11歳12歳児のう歯数やう蝕処置率に明らかな差異が認められた。
  さらに、虐待のうち生活習慣に最も関連の深い養育放棄(ネグレクト)とそれ以外の虐待の被虐待児童の口腔内を比べると、表12に示すように養育放棄・困難では、う歯所有率ではほとんど差はないが、う歯数や未処置歯数の多さでは明らかにネグレクトでの被虐者が多かった(図10,11,12,13)。
  また、う蝕以外の口腔内状態のうち、口腔内の歯垢、歯石沈着状態(表13,14)については、被虐時の環境と施設での環境の差異が明確ではない為、また、対照群に現時点で同様な資料が無いために、参考資料として、今後に役立てるべきものと考えられた。
  さらに、表15に取り纏めた、顎関節症を始めとするその他の項目についても同様に、今後比較検討すべき事項である。
  5.考察
 今回、児童虐待と口腔内状況についての調査を子育て支援と児童虐待への歯科からの取り組みを構築するための第一歩として開始した。その結果、被虐待児の口腔内状況については、う蝕疾患に関して、う歯所有率やう歯数及び治療率などで対象者と明らかな差が見られた。このことは、今後、歯科健診時の取り組みに際して、単にう蝕の早期発見に留まるのではなく、乳児、児童を取り巻く生活環境をも視野に入れる必要があることを示唆するものと考えられた。
  今回の調査では、虐待を受けた児童の口腔内状態を調査し、対照として「東京の歯科保健」及び「東京都学校保健統計書」を使用したが、今後、都内で今回調査した被虐待児数と同様の規模で対照を選定し参考とするとともに、さらに、虐待の種類と口腔内状況の関係についても分析し、報告する予定である。また、一時保護された被虐待児の生活習慣を正確に把握するには至らなかったが、このことは、今後、子育て支援のために、保護者によい生活習慣を支援するため、現状での反省点をチェックする具体的な情報が得られなかったことでもあり、今後の大きな課題と考えられる。
  また、被虐の種類については、ネグレクトが最も多く、次いで、身体的虐待の順であったが、このことは、今まで暴力の影で潜在化していた養育の放棄・困難が明らかとなってきており、今後、この傾向が現れることを示唆していると考えられた。  さらに、今回の調査対象被虐待児の身体的発育状況についてみれば、対象者に比べやや劣っている傾向が認められた。今後、身体的発育状況と口腔内状況の関連についても検討の余地があると考えられた。
6.結論
  今日、幼児、児童の口腔内状態は歯科保健の普及、啓発とともに少子化に伴い保護者の関心が十分に乳幼児・児童に向けられることから良好となってきている。東京都の「健康推進プラン21」の歯科保健目標の現状でもう蝕のない子は3歳で70.3%、5歳で42.5%、永久歯う蝕については12歳で2.6歯となっており、この10年で目覚しく改善してきている。
  ところが、今回の被虐待児の調査では、う蝕のない子は3歳児の半数以下、5歳児では2割にも満たず、12歳の永久歯う蝕も基準値の2.5倍以上という劣悪ともいえる状況であった。
  子供のう蝕予防は、特に幼児期では親の責務ともいえるばかりではなく、う蝕を放置することは、子供を取り巻く環境に何らかの問題があることに他ならない。すなわち、歯科保健しいては健康に関する意識の低さ、就労状況などさまざまな理由に因る経済的要因、そして養育の放棄に伴う虐待があげられる。    
  今後、歯科医師は、歯科健診の際に子供を取り巻く環境を考慮に入れた姿勢で臨むことが今回の調査結果から考えられる。また、東京都としても、虐待防止・早期発見の観点から、さまざまな情報の獲得が必要であり、このため、今回の調査で得られた情報など、歯科からの情報も得られる体制を新たに構築することも必要である。また、歯科医師を始めとする歯科関係者は、今後、歯科健診の中で口腔環境から得られる情報を、う蝕の有無等歯科治療の必要性ばかりでなく、受診者の生活環境に関わる情報を得る取り組みの中で、また、子育て支援との関わるの中で虐待と口腔内状況の関連を明らかにするべきである。